あくる日のソナタ




 溜息が漏れた。ざっと見直し、妙な筆記漏れやあまりにも読み辛い譜が無いかどうか確かめ、目線で音符を追いながらメロディーを頭に思い浮かべる。
 時計を見れば、作業開始から既に5時間は経過していた。もう1度溜息を吐きつつ、伸びをしてピアノから離れる。
 充実した気持ちだった。これ程までに何かに没頭したのは、実に1年振りである。書き連ねた音符に助言やアイデアを出してくれる人間は既に居ないが、康臣の中では多くの会話が交わされていたと言って良い。それも都合の良い発想かも知れないが、今しばらくはこれで良いのだとも思う。
 朝の8時から始めて、既に午後の1時。講義は全て休んでしまったが、これも仕方の無い事だ。天気の良さに誘われるように、康臣は財布だけを持って表へ出る。
 梅雨入り直前という事もあって天気は落ち着かないが、この日はよく晴れ渡っていた。地面に出来る影も濃く、僅かな風に流される葉も青々と茂っていて美しい。今の康臣には、全てが自分を祝福しているとしか思えない。

(珈琲でも飲むか)

 大学に入ってからは「優しい思い出」でのアルバイトはやめていた。というよりも、追い出されたと言った方が正しい。
 カウ・ベルを鳴らして入った店内は程好い空調によって涼しく保たれている。マスターは康臣に気付くと、にこりと微笑んでお決まりの「ようこそ」を告げた。

「ブレンドを?」
「ええ」
「かしこまりました」

 手拭きと水を差し出し、さっと踵を返してカップと珈琲の準備に取り掛かる。その背に、ありがとうと呟いた。









「成る程」
「自分がどれだけ愚かだったか、とかはもう考えない事にしました。今は結果を出すだけです」
「解りました。では楡原君、君は解雇させて頂きます」
「……え?」

 突拍子も無く、しかし満面の微笑みでマスターはそう言う。
 ぽかんと口を開けた康臣が可笑しいのか、1度クスリと笑ってから続けた。

「やる事があるのでしょう。結果を出すにしても」
「それは、そうですけど」
「片手間に済ませられる程小さな目標ですか?」
「……いえ」
「片手間に済ませられる程簡単な仕事を任せるつもりもありませんし」
「はは、解りました。……有難う御座います。お世話になりました」

 1つの決意を語った時に、そんな会話が、あったのだ。









「どうです調子は」
「難航こそしていますが、やる気だけはバカみたいに沸いてきます」
「それは結構。完成の暁には、是非お聴かせ願いたいものです」
「勿論ですよ」

 マスターの入れるブレンドコーヒーは、レシピを知っていてアルバイトまでしていた康臣にも、やはり中々出せない味を持っていた。啜り、感嘆交じりの溜息を吐く。

「無理だけはしないように。まあ、あまり心配はしていませんが」
「そうなんですか。それはそれで寂しいような気もしますけど」
「今の君は誰にも止められませんよ」

 意味深な台詞は、しかし深く康臣の心中に沈みこんだ。
 やらなければならない事があるのだ。
 それは自分の為でもあるし、かつての恋人の為でもあるし、心配をかけた多くの人の為でもある。

「思い出は優しいでしょう」
「え?」
「私もこの年ですから、もう何人もの近しい人間に先立たれています。その思い出は、やはり優しい」
「……そうですね。凄く優しい」
「ですが決して甘くはない。過ぎ去った思い出は思い出でしかなく、それは変わりません。テーブルに砂糖を置いていないのは、そういう理由でもあるんですよ」

 そう、マスターは得意げに笑って見せた。つくづくこうした仕草や台詞の似合う老紳士である。

「勿論、珈琲の味を素直に楽しんで貰いたいからというのが1番の理由ですが。まあ、ロマンがあるでしょう」
「確かに」
「楡原君は、思い出をブラックで楽しめるようになったんですよ。苦々しいが、優しい思い出を」

 休憩にと立ち寄った「優しい思い出」では、そんな話を聞くことが出来た。
 自分を取り巻く環境の美しさに、漸く康臣は気付けるようになってきたのだ。









 再び自宅へ戻ると、マンションの前に影。小柄な、少し所在無さげに立つその姿を見るのは随分と久し振りに思えた。

「雨宮さん、久し振り。今日はもう終わり?」
「うん、最後休講になっちゃったから、お買い物ついで。でも先週も遊びに来たよ? あたし」
「……そうだった。ま、いいや。上がる?」
「ありがとう」

 康臣の後に続き、皐月はとことこと付いてくる。
 自室に入るとすぐに窓を開け、風を入れた。

「……ピアノ、まだ直してないの?」
「全部終わったら直すよ。というか、買い替えだね、これは」

 中ほどの鍵盤は、未だ粉々になったままだった。それをじっと見ながらの皐月の問いに、苦笑いになりながら康臣は珈琲を入れる。
 これを壊す為に使ったサボテンの鉢は、土と鉢を入れ替えた事でどうにか生き長らえた。真莉が気に入っていたモノだっただけに、心底良かったと康臣は思っている。

「作曲の進行具合は、どう?」
「上々かな」
「学校には?」
「行ってないよ。時間が勿体無くて」
「え、駄目なんじゃないの? それじゃ」
「うーん、でもまぁ、数字さえ出せば良いんだろうしさ」

 少し困ったように諌める皐月に、再度苦笑いを向けながらカップを差し出した。自分で珈琲を入れるのは久し振りである。
 康臣は、結局特に当たり障りの無い大学への入学を進めていた。それは多くの人が残念がってくれたが、康臣は1つの報いとして受け取る事にした。
 そして編入試験を受験する事も、既に決めている。勿論、1度は投げ打った鮮麗音楽大学だ。
 既に1度パイプを蹴ってしまっている康臣に大学側からの連絡は無かったが、それでも編入を決めたからには当然の如く通らなければならない門なのだ。その門は狭いが、しかし今の康臣にとってはさしたる問題でもない。

「編入試験は7月だからね。特に興味の無い学部じゃ、勉強してられない」
「そっか……大変じゃない?」
「決めた事だから」
「……うん」

 大きく頷いて、皐月は返事をする。
 彼女との距離も、実に微妙ではあった。面と向かって胸の内を聞かされたものの、康臣はそれに具体的な返答をしていないのだ。
 しかしそれも、どう転ぶにしても全てが終わってからだ、と康臣は考えている。皐月としても、きっとその方が良いだろう。マスターの言うように、今は片手間に何かを済ませようとしてはいけない。そこまで器用ではないという事は、真莉も言っていたのだから。

「楡原君、少しピアノ聴かせてくれない?」
「駄目」
「ケチ……」
「それにあのピアノじゃ主旋律は弾けないよ。ベースパートだけ聴いたって面白くもないと思うけど」
「そんな事ないのになぁ」

 唇を尖らせて微妙に非難する皐月を笑って誤魔化し、康臣はピアノへ向かった。期待の眼差しを受けるが、それには楽譜をひらひらと振って答える。

「弾かないって」
「残念……」
「譜面はこんな感じだから。なんとなく雰囲気は伝わるんじゃないかな」
「……」

 康臣から手書きの楽譜を受け取り、皐月は暫し睨めっこをする。
 が、何分ともたずに音を上げてしまった。

「やっぱり、無理」
「どうして?」
「だってあたし、絶対音感とか無いから、譜面だけ見てもメロディーまでは思い浮かばないよ」
「あー、そっか」
「でも、確かに凄く進んでるね。そんなに時間かからずに完成出来るんじゃない?」
「そうだね、完成しちゃえば、後は勉強にも手回せるし」
「この曲で試験受けるんだ?」
「勿論」

 今度は康臣が大きく頷く。それで皐月は、どこか満足げに笑って見せた。
 カップをぐっと持ち上げて珈琲を飲み干すと、皐月はソファから立ち上がる。

「そろそろ帰るね」
「早いね」
「あんまり邪魔しちゃ駄目だし」
「解った。じゃ、そこまで」

 玄関まで見送る。不意に何とも言えない表情を向けてきた皐月の心情は、多少は予想出来てしまうだけに返し辛い。
 結局何も言わない事にしたのか、皐月は笑って頭を下げた。

「お邪魔しました」
「いいえ。またいつでも」
「……うん。いつでも」
「?」
「じゃあね」

 最後まで笑ったまま背中を向け、皐月はマンションの廊下を小走りに抜けていった。
 ドアに鍵をかけ、ピアノへ向かおうとしてから、飲みかけの珈琲に口をつける事にした。息抜きに他人と話すのは良いのだが、皐月との会話はどうしてもぎこちなくなってしまう。理由はやはり彼女の態度と、康臣自身の後ろめたさだが、少なくとも今だけは忘れておかなければならない事の1つである。

(やれやれだ)

 未だに情けない自分を、しかし康臣はそれでも嫌いではない。これも、真莉が好いてくれた自分だからだ。
 康臣の心は、まだ真莉に囚われている。それは悪い意味でもなんでもなく、1つのけじめとして、故意に囚われたままになっているのだ。城塚真莉へ送る、最後のピアノを、今は練り上げる事だけに専念すべきだった。
 気合を入れなおし、壊れたグランドピアノへ向かう。
 真莉の手紙を、また後で読み直そう。
 そう考えながら、かの手紙を皐月から受け取った時の事を、思い出していた。









「これから、どうするの?」
「……そうだね」

 真莉の手紙を受け取り、読み終えた康臣は、急速に自分を取り戻しつつあった。
 あらゆる事象を、新たな理論で組み上げた偽りの世界を全て破棄し、「城塚真莉」を完全にその胸中に抱き込んでいた。
 康臣君は、康臣君のままで。
 その意味が、徐々に理解出来つつあった。というよりも、皐月の言ったように「忘れていた」のを思い出しつつあったと表現する方が正しい。涙は既に枯れていて、手紙とその文面の重みに押し潰されるように膝をついていたが、康臣はゆっくりと立ち上がる。
 とりあえず、俯けていた顔を前へ向けた。
 足を、踏み出した。
 ボロボロの心を全力で繋ぎとめて、微笑み、皐月の脇を通り抜けた。

「雨宮さん」

 教室の出口へ向かいながら、声をかける。背中越しに彼女が振り返るのが解った。

「もう暫く、俺は真莉と一緒に居るよ」
「……」
「でもそれで最後。あの人の名誉の為に、あの人そのものの為に、やらなきゃならない事がある」

 立ち止り、振り返ると、皐月はじっと康臣を見詰めていた。値踏みするようでもあり、見送るようでもあるその視線に、今1度笑いかける。

「ありがとう」
「っ……」
「また改めて御礼は言うけど、ありがとう」
「うん」

 そう言って、教室を後にした。
 便箋を広げ、楽譜を眺める。所々に注釈の入った真莉の手書きの楽譜は、やはりそこに在るだけで美しい。
 これを、完成させよう。
 それが、康臣の「やらなきゃならない事」だった。









 快調に指は動き、旋律は姿を現しては消え、音符は次々に書き込まれる。
 鍵盤が壊れている、というのは丁度良いのかも知れなかった。真莉が既に書き終えている主旋律はそのままに、ベースパートだけを作るには、極端に言えばピアノの左半分だけがまともに動いてくれればそれで十分なのだ。
 ペンを走らせ、また音符を1つ。修正は今まで1度もしていない。
 手書きの楽譜には、予め真莉によって空けられているラインがいくつかあった。正しく、そこへ書き込むようにと指示しているかのように。

(ここは優しく、でも力いっぱい弾いてね)

 そんなような注釈が、随所に散りばめられている。真莉は最初から、この譜面に康臣がベースパートを書き足すであろう事を予想していたのだ。改めて、自分が愛した人間の大きさを知る。
 あんな彼女に、自分はどれ程の事をしてやれるだろうか。
 どれ程の事を「しれやれた」だろうか、ではない。既に過去の事は、悔いる必要も無いと知った。真莉は全てを満足し、全てを認めてこの世を去ったのだ。それを「可哀想だ」だの「不憫だ」だのと形容してしまうのは、城塚真莉という人間の18年間を侮辱しているのと同じ事なのである。だからこそ、これからの自分は大変なのだと康臣は理解していた。
 これから、自分は真莉に試される事になる。最も大きく最も大切な存在を失い、尚己の運命に立ち向かっていけるのかどうか。
 見てろ、と敢えて挑戦的な気持ちで、康臣は更に音符を追加した。メインメロディーを口ずさみながら、ベースパートだけをピアノに任せ、その符合を確かめる。
 完璧な旋律だった。

「……大したモンだ」

 自画自賛。
 音楽は、既に亡い真莉と語る為には、確かに無敵の言語と言えた。完成された真莉のパートに、相槌を打つように康臣がベースを書き込んでいく。手を変え品を変え、あらゆる角度から真莉の表情を伺う。
 それは、とても楽しい作業だった。

[NEXT]
inserted by FC2 system