何故だ、と思い、それから納得する。

「うん、美味しいね」
「でしょう」

 自らが出す軽快な相槌を、どこか遠くから康臣は眺めていた。
 国営公園の、少し開けた場所。日差しは暖かく、風の無いこの静かな場所に、2人並んで腰を下ろしていた。日傘も差さず、太陽を思い切り浴びながら珈琲を飲む真莉の姿は、改めて思うまでもなく美しい。陽光すら照り返すような白い肌は、よく出来た人形のように滑らかで、つい手を伸ばしそうになる。

「いい天気」
「はい」
「っていうか、康臣君、元気?」
「元気ですよ」
「そっか」
「大泣きしましたがね」
「あはは。見たかったかも」

 楽しそうに口元を抑えて笑う横顔は、やはり遠かった。こんな時まで現実的な自分の思考回路に、康臣は笑いしか出て来ない。
 再び珈琲を一口。こんな場所でカップにソーサー付きの珈琲という辺り、成る程自分達らしいとも思う。

「でももう、気にしないでいいのに」
「バカ言っちゃいけません。今後気にしない事なんてありませんよ」
「それはそれで嬉しいんだけど」
「でも真莉の為だけにピアノを弾く事はないでしょうね。これからは多分、色んな人に向けて弾いていきたい」
「良い事だよ。私が独り占めする期間はもう終わったんだしね」
「……出来れば、ずっと」
「それは言わない約束。呪うよ」
「勘弁して下さい」
「あはは」

 国営公園な筈だったが、どこか風景に歪みがある。
 夢なんて、こんなモノかと諦念交じりに思いながら、しかし嬉しいモノだった。
 自分の脳が、都合良く記憶を繋ぎ合わせて真莉にこんな事を喋らせているのだと思うと、少々興ざめはする。だが夢枕に立つ、という言葉の真実味を実感すると、これはこれで良いモノだと素直に思えるのだ。
 真莉は居ない。
 だからこそ、こうして夢の中やら思い出の中やらでのみ、出会える。
 きっと、恐ろしく贅沢な事なのだろう、と康臣はひとりごちた。同時に、世界が少しばかり白む。

「そろそろかな」
「そろそろ?」
「目、覚めるみたいで」
「そっか。じゃ、お暇するね」
「はい。また」
「うん」

 簡単なやりとりで、真莉はふっと掻き消えた。
 そんな状況すら、ひどく大切だった。









「というワケで、夢枕は実在するよ」
「ほう」

 意外そうな顔をするでもなく、驚くでもなく、政孝はうっそりとした表情で頷いた。半ば興奮気味に話した康臣としては、ここまで手応えが無いのでは非常につまらない。

「感動の無い男だね政孝は」
「いや、こんな時まで惚気られれば呆れるモンだろう」
「惚気てるワケじゃないんだけどなぁ……こう、素直にこの感動を分かち合おうとか思わないワケ?」
「思わない」
「なんで」
「お前が幸せなのは意外と腹立つ」
「うわぁ……」

 はっきりとそう言い切って、政孝はハンバーガーを口に放り込んだ。凄い物を見るような康臣の視線にも全く動じない。ある種の尊敬が生まれた。

「あー、何で俺には女が出来ないかねぇ」
「そんな事言われてもなぁ……」
「クソ、俺もピアノをやっとくべきだったのか」
「問題はそこじゃないだろ」

 苦笑い。
 夢の話を語るべき相手として、政孝は特に適当だった。皐月には色々と妙な感慨を交えてしまいそうだったし、薫子はこの所忙しいらしい。新田教諭には卒業以来殆ど会えていないのでは、目の前で打ちひしがれる男しかいなかったのだ。
 消去法か、と自分に突っ込みつつ、康臣は続ける。

「でも居ないの? 予備校とかに良さそうな子」
「俺は雨宮さんラブだからな」
「……」
「そんな顔するな、突っ込め」
「政孝のボケは時々ハイブリッド過ぎて置いていかれるよ」
「それでも俺の付き人か」
「なら尚更無理だ。そんな残念過ぎる役職に就いた憶えはないし」
「冷たいなぁ康臣は」

 台詞とは裏腹に豪快に笑ってみせる辺り、本当に岸田政孝という男は掴めなかった。大学には結局受からず、気侭な予備校生生活をしている政孝とは、高校生の頃よりも更に会う機会が減っているのが小さな悩みだ。
 大きく伸びをし、背もたれに体を預け、政孝はぽつりと呟く。

「聞いてたしな、俺」
「何を?」
「雨宮さんがお前に好きだって言ったの」
「聞いてたのか」
「それからどうなの、お前等」
「どうもしないよ」
「相変わらずだな」
「いや、今みたいなハンパな状況で答える方が失礼だろ?」
「確かに。あ、じゃあ墓参りも?」

 今度はテーブルに突っ伏し、やる気無さげに問う。

「うん、まだ」
「そうか」
「真莉の墓には、完成した楽譜を持って行くつもりだから」
「鮮麗の合格通知と一緒に?」
「そのつもり。本当は今すぐにでも行きたいんだけどさ」
「まあ自業自得だな」
「政孝は?」
「どうするかなぁ、と。このままリーマンやるのも楽しそうだし」
「髭剃りなよ予備校生」
「髭の事は言うな!」

 テーブルを叩き、力任せに言う。周りの客から集まる視線が少々痛い。
 だが即座に素に戻れるのがこの男の凄い所だった。

「あ、バイトの時間だ」
「何やってんだよ……」
「お前も帰るか? 駅までなら送るぞ」
「助かるよ」

 車のキーを取り出しながらの提案に、康臣は2つ返事で頷いた。
 ファーストフード店の裏手にある駐車場へ向かいながら、早く自分も運転がしたいと康臣は切に思う。免許そのものは春休みの終わりに合宿で取ってしまっているので、後は車だけなのだ。
 そんな気持ちを読んでか、政孝はエンジンをかけながら問う。

「車買わないの?」
「俺が欲しいのは高くて」
「いくらぐらい」
「300万」
「帰れ」
「イタ車だしさ」
「ペーパーのクセに外車乗ろうなんて気合入ってるな」

 言いながら政孝はパワーウィンドのボタンを連打してみせる。動く気配はない。

「ぶつけた?」
「うむ」
「……俺は安全運転だし」
「でも300万だぞ?」

 滑り込むように駅前のロータリーを巡り、空いているスペースへ半ば強引に政孝の車は入り込んだ。危なげはないのだが、モラルという観点からはあまり褒められた運転ではない。

「ありがと、助かったよ」
「頑張れよ康臣」

 万感込めた友人の励ましに、康臣は笑って見せることが出来た。









 自宅に戻れば、すぐにピアノだ。今朝真莉の夢を見たこともあってか、ひどく爽快な気持ちで作曲に専念出来る。
 高音から低音へアクティブに。
 勢いは殺さず愛情を込めたタッチを。
 悲しい気持ちは打ち捨てて、ただあるがままに奏で、連ねる。
 真莉の後押しが、指先へ伝わっているようだった。全ては彼女の為であり、彼女は自分の全てで以って助けてくれる。それは揺るがしようの無い事実であり、思い出であると、音楽という言語での囁きが知らせてくる。
 ページを捲るにつれて、「康臣君らしく」という注意書きが目立つようになった。見る度に、この3拍子の楽曲を任されているのだと誇らしい気持ちになれる。
 快調だった。完成が見えてきている。
 だが、決まってこうした時に邪魔は入るモノだ。携帯電話が鳴っているのを最初は無視していたが、結局康臣は出る事にした。

「もしもし」
「康臣。忙しかった?」

 薫子からだった。出てよかった、と心の底から天を仰ぎ見るような気持ちで思う。悟られないよう、とりあえず嘘。

「ピアノを弾いてて。気付きませんでした」
「そう、ごめんなさいね」
「いえいえ。それで、何か?」
「調子はどうかと思って。来月にはもう試験でしょう?」

 薫子の心配性は以前よりも相当なモノになっていた。心配をかけ続けたのは自分なのだから仕方ないのかも知れないが、あまりにも過保護すぎる面が姉には時折表れる。

「まだ何とも言えませんが……実技の方は問題無いですよ」
「大した自信だわ。あの、例の城塚さんが残したっていう……?」
「はい。完成は近いです。これで入れなければ、その時こそサラリーマンでもやりますよ」
「成る程ね」

 以前なら「サラリーマンを」という台詞に対して薫子は何事か言及して見せただろう。だが彼女は、今の康臣にとってのピアノの大きさを、真莉を除けば誰よりも知っている人間だ。

「要するに、受からないワケがないと」
「当然です。誰が主旋律を考えたと思ってるんですか」
「羨ましい限りね。心配して損したわ」
「いや、こうして電話を貰えるのは素直に嬉しいですよ。有難う御座います」

 何となく携帯電話を持ったまま頭を下げてしまう。極めて日本人らしかった。
 薫子は「そう」と曖昧に相槌を打って、落ち着き無い様子で黙り込む。電話の向こうで指先でも机か何かに打ち付けているのだろう、と康臣には容易に想像出来てしまった。意外に照れ隠しの苦手な姉の一面は、鉄面皮だと思っていた彼女をひどく親密に見せる。

「ああ、夏海から聞いたのだけど」
「はい?」
「免許を取ったそうじゃない」
「……いつの話ですか。春休み中に合宿で取りましたよ」
「その頃私はこの国に居なかったもの」

 立ち直りを見せた康臣を見て安心したのか、薫子はすぐに仕事に戻った。音楽業界は何よりも人脈と名前の浸透具合である。そうちょくちょく休んでばかりもいられなかったのだろう。
 含み笑いをしながら、薫子は続ける。

「夏海が嘆いてたわよ。康臣様が合宿所だなんて汚い場所に行くなんて、って」
「あの人、そんな事言う人でしたっけ……」
「楡原を大きく見すぎなタイプね。中年連中を見習って欲しいわ」
「今のところ姉妹にしか見えませんしね」
「恐縮し過ぎなのよ。ま、夏海の事はそのうちゆっくり苛めましょうか。夏頃にはまた戻るわ」
「え、姉さん今どこから?」
「ロンドン」
「……わざわざ、有難う御座います。必ず結果を出して見せます」
「期待はしないわ。貴方にはそれしか無いものね」
「はい」
「それじゃ切るわ。体には気をつけて」
「姉さんも」
「ええ、じゃあね」

 姉は今も遠い地でピアノを弾いている。
 その羨ましさたるや、携帯電話を置いてから小走りにピアノへ向かってしまった程だ。
 真莉との最後の合作。そこから、自分のピアノは始まるのだ。
 大きな誇りと小さな寂しさを一緒くたにし、康臣はまた楽譜へ音符を足していった。

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