国営公園を練り歩く。芝生の青さに空の高さも手伝って、非常に解放的な雰囲気を醸し出していた。人工物が殆ど目に入らない大きな広場は、休日という事もあってか多くの家族連れやカップルで賑わっている。仲良さげにはしゃぎ回る子供や、暑い中べったりとくっつく男女は、康臣の頬を自然と緩ませた。
 少しばかりの行き詰まりを感じて何となく外へ繰り出してきたのだが、正解だったと康臣は思う。気分は大分楽になり、徐々に頭の中にアイデアが浮かび始めた時だった。

「康臣」
「……久保さん。お久し振りです」
「本当に久し振りだな。1年振りぐらいか?」
「はい。お変わり無いようで」

 無名の画家、久保が声をかけてきたのだ。相変わらずあまり品のあるような格好や仕草ではなかったが、どこか愛嬌のある様は康臣をほっとさせる。
 イーゼルの前に折り畳みの小さな椅子を出して座っている、いつも通りの久保の姿は、1年という時間を感じさせない。

「どうだ、調子は」
「上々ですかね。ちょっと行き詰まっていたりしますが」
「行き詰まり?」
「作曲を、やっているんですよ。拙いモノではありますが、手伝ってくれる人が凄い方でして」
「成る程」
「メインパートはその人が書いてくれたんです。あとは俺がベースパートを作るんですが、中々」
「緊張しちまうか」
「そうですね」

 興味深げに康臣を眺め、それから久保は筆を置く。同じようにやや間を置いて、再度口を開いた。

「康臣、芸術ってのは才能の有るヤツにしか出来ないモノじゃない」
「というと?」
「言葉通りの意味だ。芸術なんてのは、ソイツが芸術だと思ってりゃ芸術なんだよ。誰かに認められたくてやるのはただの仕事だ」
「……成る程」
「だから俺は天才なんだよ。俺にとっては俺の絵が1番だからな」

 言って、久保は豪快に笑う。
 行き詰まりを感じていたのは、確かに真莉の技量と自分の技量の差を大きく感じたからである。久保の言うように緊張もしているのだろう。だが、この自称「売れない天才画家」の言う事も、尤もだった。思った通り、真莉の注釈の通り「康臣君らしく」あればそれで良いのかも知れない。
 自分に才能があるかどうかではなく、自分にピアノが出来るかどうかだ。聊か乱暴な久保の解釈も、今の康臣には新鮮ですらある。

「参考になりました」
「結構だ。ああ、そういや懐かしい話だが、あの外人さんは見に行ったんだよな?」

 いやらしい微笑になりながら、久保は更に興味深そうに聞いてくる。一瞬だけ言葉に詰まって、それから康臣も笑い返した。

「ええ。でも、外人じゃないですよ。俺の高校の先輩でした」
「外人じゃなかったのか」
「生れ付き髪が白かったり肌が白かったりする病気だったんです。だからそう見えたんでしょうね」
「ほぉ……んで、どうしたんだ?」
「付き合ってますよ、その人と」
「なんだと? ……やるなお前」
「まあ、そろそろお別れなんですが」

 不思議そうな顔をする久保にもう1度礼を言い、康臣は踵を返した。
 帰ったら、すぐにピアノに向かおう。
 真莉と自分の最後のソナタを以って、本当の意味での「お別れ」になるのだ。康臣は、やはり湧き出る僅かばかりの寂しさを隠さなかった。









「……」
「……」
「……」
「……あ、外れた」
「解ってるよ!」
「あはは」

 短く溜息を吐いて、康臣は椅子から立ち上がった。意外そうに皐月はそれをソファに座ったまま見上げる。

「終わり?」
「集中出来ません。ていうか雨宮さんは嫌がらせにお見えになったんですか?」
「……ホントに慇懃になった。真莉先輩の言う通りだね」
「……」

 学校の帰り、皐月が少し足を伸ばして遊びに来るのはそう珍しい事ではなくなってきていた。
 どこか彼女の方にも遠慮が無くなってきているらしく、最近ではあからさまな言動も目立つようになっている。

「でもあとちょっとなのに」
「そうだね。形は見えてるけど、具体的にどうこうする気力に繋がらないっていうか」
「……」
「勿体無いんだろうね、きっと」
「作曲が終わっちゃうのが?」
「そう。それで、俺は真莉とお別れだから」

 口に出してみると、ひどく曖昧な台詞だった。物理的な「お別れ」は既に済んでしまっている。真莉とはもう会えはしない。
 だから、精神的にはまだ何の成長もしていないのだろう、と康臣は思う。真莉の中に居て、真莉の腕にしがみ付いているような状態。だからこそ作曲を完遂してしまう事を勿体無いと感じるようになってきているのだ。

「でも、やらないとね」
「解ってる。真莉の為の、最後のピアノだから」
「それが終わったら、少しはあたしの方も向いてくれるのかな?」
「……」

 今に始まった台詞ではないのだが、康臣はイチイチ唖然としてしまう。そして、皐月はそれを楽しげに笑って見るのだ。
 こんなに手強い子だったか、と昔を省みつつ、康臣は苦笑いを浮かべた。

「ノーコメント」
「あー、ひどい」
「そういう弄り方は勘弁して下さい」
「……うん。まあ、これからはあたしと真莉先輩の勝負だし」

 再度うん、と頷きながら気合を入れる皐月の横顔は、真っ赤になっていた。これも1つの励ましの姿勢なのだろう。

「強敵なんだもんなぁ……」
「はっはっは」
「笑う事ないのに……」
「まあ、1つだけ言えるとしたら、俺はやめておいた方が良いよ、と」
「どうして?」
「多分口だけでもう暫く引き摺ると思うし」
「そこがあたしと先輩の勝負所」
「……成る程ねぇ」
「こんなに好きなのに」
「……」
「あ、目逸らした」
「そりゃ目も逸らすさ」

 すっかり温くなっていた自分の珈琲に口を付け、康臣は再びピアノへ向かう。怖いもの無しになり始めている皐月だけは、決して敵に回すまいと心に誓った。
 そんな彼女からの期待の眼差しを背中に受けるのは、悪い気分ではない。康臣はそう感じ始めている自分を軽薄と思わないでもなかったが、真莉の記憶が磨耗していくことだけは決して無いのだろうと思うとひどく安心感に包まれる。

「まあ、適当にやるよ」
「適当って……」
「ハッキリ言ってこの曲は俺には荷が重い」

 皐月の方は見ず、砕けた鍵盤だけをじっと見詰めながら、呟く。

「でも逃げたってしょうがないから」
「うん」
「真莉からも、真莉を超えられない事からも」
「楡原君なら真莉先輩を超えられるよ、きっと」
「難しいと思うけど」
「だって真莉先輩しょっちゅう言ってたもん。楡原君には勝てないなぁって」
「俺もよく言われたよ。でもソレは、多分真莉の為だけに弾いてたからじゃないかな」
「……」
「誰が聴いても良いと思えるピアノ。それで尚且つ真莉を超えられる演奏。有り得ないとは思わないけど難しいよね」
「……出来るよ」
「そっか」

 途中まで煮詰まっていたベースパートに手をかける。ダン、と低いながらも透き通るような音色は、そのまま跳ねるようにリズムを刻んでは消えていった。
 皐月は飽きもせず康臣のそんな様をじっと見詰める。
 本当なら彼女にも真莉の作ったパートを聴かせてあげたいところだったが、肝心のグランドピアノがこの状態では致し方ない。我ながら恐ろしく安易な行動を取ったものだ、と1年間近くを振り返りながら康臣は自嘲気味に口元を緩めた。

「またそういう顔する」
「……え?」
「似合わないよ、そういう笑い方。もっと明るく笑えばいいのに」
「案外……雨宮さんが長女だっていうのも頷けるような気がしてきたよ、最近」
「ホントさりげなく失礼な事言うよね……」
「いや、鋭い。驚いた。気を付けます」

 本気ではないにしろ、機嫌の悪さを前面に押し出し始めた皐月に、フォローをする。
 今更振り返ったところで、それこそ致し方ない事だ。この曲も、作曲中の真莉の気持ちも、あらゆる意味を踏まえた上で、楡原康臣は進んで行かなければならないのである。とりあえず笑い、歯を食い縛って、血だらけの胸を張り、真莉以上に過酷な「明日」を視界に入れた上で。
 そんな事が、頭を過る。

「雨宮さん」
「え?」
「もうちょいで完成、って所だから少し気早いんだけど」

 体ごと皐月の方を向くと、先ほどとは打って変わって緊張気味に姿勢を正す。

「う、うん。何?」
「タイトルだけ、決まった」
「タイトル」
「真莉はね」

 視線を、何となく寝室へ向けてしまう。皐月もつられてそちらの方を見るが、康臣が何を見ているのかまでは解らない様子だ。

「……子供が欲しいって言ってた」
「こ、ども?」
「そのままの意味でもあるし、ちょっとした比喩でもあるのかなと思う。要するに子供は「未来」だ。今の時代にどれだけ優れた人物が居ようと、その人も必ず死に絶える時がくる。その未来を任されるのは、子供」
「……」
「真莉は、俺との将来を夢見てくれていたんだ」

 微塵も恥ずかしいなどという気持ちは持たず、康臣はそう言った。一瞬呆気に取られ、しかし皐月は真剣な表情で頷き返してくれる。

「……その時の気持ちは、きっと壮絶だったと思うよ。ホラ、大きな間違いでも無い限り、俺や雨宮さんには当然の如く「明日」があるよね?」
「うん、当たり前過ぎる話、だけど」
「そう。当たり前だから、中々気付けない。これがどれだけ有り難い事で凄い事なのか、俺は大分理解出来たつもり」
「……真莉先輩には、それが無くなっちゃったんだもんね」

 言葉を選んだような皐月の台詞に、気にする必要は無いという意思を込めて頷き返す。

「だから、真莉が最後に残してくれたこの曲には、そういう「明日」とか「未来」とか、要するに「これから」の事が凄く詰まってる。俺の勝手な解釈かも知れないけど、真莉は本当の気持ちを音楽っていう言語にしてくれたんだと思う」
「言語」
「ピアノを弾き始めた雨宮さんにも解る筈だよ。音楽は言葉。だから真莉は、俺たちだけじゃなくこの曲を聴く全ての人間に手紙を残したと言っても良い」
「……凄いね、そう考えると」
「凄い人だよホントに。だから俺は、出来る限り真莉の手助けをしなきゃならない。それが俺に出来る、真莉に対する最後の愛情だと思うから」

 愛情という単語も、ひどく爽やかに康臣の口から出て行った。皐月との距離を考えれば随分と不躾な台詞に聞こえるが、皐月にもその辺りは十分理解は及んでいるのだ。大きく頷き、笑って見せた彼女の髪が、揺れた。

「だからまあ、タイトルは直球で」
「聞かせて?」
「うん」

 いつかのように口頭ではなく、康臣は楽譜のタイトルスペースにペンを走らせた。
 ソファを立ってピアノに駆け寄る皐月に、それを見せる。

「……うん。良いと思う、凄く」
「キャッチーだしね」
「あはは」
「後は、完成させるだけだ」

 こうしてこの日、皐月の見守る中。
 真莉がメインを、康臣がベースを担当した、恐らくは世界で最も眩しい曲。
 或いは、明日を望み崩れ去り、一時の幸福にその身を全てつぎ込んだ者が語る未来へのメッセージ。
 「あくる日のソナタ」は完成を迎えた。

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